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はっきり言って淡々と治療だけするのは大嫌いです

はっきり言って淡々と治療だけするのは大嫌いです

ごめんなさい、びっくりさせてしまったかも知れませんね。そうです、ぼくは淡々と治療をするのはイヤ。そんなのつまんねーヨ、そんなことしたくねーヨ、というのが正直な気持ちです。

ではどういう治療をしたいのか?患者さんと雑談をして、笑い合ってお互い人間として触れ合いながら治療をしていきたい、と本気で思ってます。

パステル歯科医院を開業してからもうすぐ5年が経とうとしていますが、この5年あまりでぼくが患者さんに言われてとてもうれしかった言葉があります。

「先生、わたし今までいろんな歯医者に行ったけどほんと、先生に出会えてよかった。」

この言葉を聞いたとき、はっきり言って感動しました。
ぼくが淡々と治療だけしていたらきっと、この言葉は頂けなかったでしょう。ぼくの治療にたいする説明や治療の合間にする、オシャベリを通して少しずつぼくを信頼して頂けたのだと思います。

オシャベリ。それは、信頼関係をつくる

オシャベリ。それは、信頼関係をつくる患者さんは最初にパステルに来てぼくと初めて話したときに、だいたいの方がとても緊張されているのが伝わってきます。当たり前ですよね。なんか先のとがった道具が並んでるし、ぼくみたいなでかいのが出てくるし。

でもちょっと待ってください。実はぼくも緊張してるんです。ぼくも面識のない人にこれからちょっと痛いかもしれない事をしなければならない訳ですから、「この人、すごい怖がりなのかなあ」「今まで歯医者でいやな思いしたんだろうなあ」とか、いろんなことを思ってるんです。

そんな二人なわけですから最初はぎこちなくって当たり前ですよね。でも、何回か説明をしたり、オシャベリをしたりしていると、だんだんと溝?が埋まってくるのを本当に感じます。

そして冗談を言ったりしてお互いにニカッと笑えるようになったりします。こんな時ぼくは歯科医師として一人の人間として本当にうれしくなります。ぼくは患者さんたちとオシャベリするのが大好きです。

プロフィール

パステル歯科医院 院長 権藤暁曠パステル歯科医院
院長/権藤暁曠(よしひろ)

【略歴】
1992年3月昭和大学歯学部卒業
2002年8月パステル歯科医院開業
■日本口腔インプラント学会 会員
■バイオインプラントアカデミー会員
■日本臨床インプラント研究会 会員
■SJCD レギュラーコース終了
■ストローマンインプラント認定
■アストラインプラント認定
■カルシテックインプラント認定
■ノーベルインプラント認定
■IATインプラント認定
■国際歯周内科学研究会会員
■日本歯周病学会 会員
■日本大学松戸歯学部歯周病講座 研究員
■船橋歯科医師会日本歯科医師会会員
■千葉県歯科医学会認定医
■葛飾小学校・葛飾中学校校医

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ぼくはこんな道を歩んできました

ぼくは患者さんたちとオシャベリするのが大好きです。そんなぼくをより知って欲しいと思います。
ではいってみましょう。ちょっと波乱万丈なのでびっくりしないでください。

幼少のころ~熱血先生との出会い

ぼくの父は、会社を経営していたので世間的には恵まれた少年時代でした。まあ、俗に言う<お坊ちゃん>です。普通に成績もよく、友達と野球をしたりサッカーをしたり、ザリガニをとったり。

小学校6年生のときの担任の先生がすごい熱血先生でした。その小学校は毎月、小運動会というのがあり、4月にはクラス対抗全員リレー、6月はドッジボール大会、7月は4人リレー(クラスの足の速い子を上から4人集めて、クラス対抗戦をやる。

なんとぼくはその選手でした。結構、運動神経よかったんです(今ではだれも信じてくれませんが)。

熱血先生はそういったことに燃えまくる先生で、放課後遅くまで練習させられました。勉強はというと、これまたスパルタでした。よく、ぶん殴られてましたが子供たちに深い愛情をもっているのがわかるので、ぼくはその先生が大好きでした。

幼少のころ~熱血先生との出会い
高校受験は当時なぜか男子校に行きたかったぼくは
市川市の市川学園と東京都の巣鴨高校に合格し、
家から近い市川学園に入学することにしました。
熱血先生から教えてもらったこと

彼からは規律の重要性や、目標に向かって努力することの大切さなど大切なことをいろいろと教えてもらいました。そういえば二人で映画館に007を観に行ったなあ。いい思い出です。

おかげで成績もよく、中学校もきびしい学校だったので、それなりに真っすぐな中学生でした。中学時代はサッカー部でセンターバックというポジションでした。

当時のぼくは周りの友達に「俺は国立の医学部に行きたい」と言っていました。そのころから医療の道を歩みたい、という気持ちを持っていました。

すっかり遊びに染まった高校時代

さあ、このあたりからぼくの人生が微妙にずれてきます。

市川学園は中学校もあるので、エスカレーター式に高校に上がってきた連中がクラスの8割ほどを占めます。
やつらは温室育ちで遊びなんかまったく知らないぼくがおもしろかったのか、「帰りにボーリング行こうぜ」「俺の家に遊びに来いよ」と耳元で甘くささやき、純なぼくに悪いことをたくさん教えてくれました。

ぼくは遊びにすっかりはまってしまい、入学当時クラスで2番だった成績が2学期の中間テストではビリから数えて何番目です。

親も担任の先生も怒る、怒る......。高校2年の後半からはこれではまずい、と思い勉強しだしましたがときすでに遅く、国立の医学部どころではありません。当然、浪人しました。ここで馬鹿なぼくもやっと気づきます。「ああ、つけはきっちりまわってくるんだ」と。

もう、怠け体質となってしまったぼくは昔のように必死に勉強することができず、やっとこさ北里大学医学部の1次試験に合格。しかし2次試験(面接、小論文)で不合格

集団面接でしゃべりまくったのがまずかったのかなあ。いっしょに面接をうけた連中は「君は絶対うかるよ」つて言ってくれたんだけどなあ。

まるで毎日が修学旅行だった(笑)大学時代

結局ぼくは1つだけ受験した歯学部、昭和大学に入学。大学時代は「俺って歯医者に向いてないよなあ」とよく思っていました。

昔は精神科医になりたかったのに...自業自得だけど...という気持ちが根底にあったのだと思います。生まれて初めての挫折でした。

まるで毎日が修学旅行だった(笑)大学時代ぼくはもともと友達は多かったので楽しい大学生活を送りました。ぼくの通っていた大学は1年生の1年間、山梨県の富士山の麓で全寮制を強いられます。

なんと男5人部屋です。2段ベッドが3つに勉強部屋!「フーっ、これから1年、このむさい奴らと共同生活かよ......」

大学1年は教養課程だから1番楽で時間があるんですよね。ホントため息が出ました。

まるで毎日が修学旅行だった(笑)大学時代が、しかし、慣れるとこれがホント楽しいんですよ。毎日が修学旅行です。酒を飲んで大騒ぎ、風呂に入れば水をかけあって大騒ぎ。ほとんど、ガキです。

退寮の前日なんて大の男が20人位集まって、最後の晩餐。みんな、離れたくなくてさびしい顔してるんですよ。本当にいい経験でした。この頃仲良くなった友人たちは今でもぼくの大切な友人たちです。

回り道、そして苦難の時代

歯科医師国家試験に合格し、勤務医として馬車馬のように働きました。

当時付き合っていた彼女との結婚を考え始め、明日は彼女の御両親に御挨拶に行こう、という夜からぼくの人生は激しく、厳しい波に翻弄されていきます。

その晩、両親に呼ばれ父の経営する会社を手伝ってくれないかと言われました。「え、でも俺、歯医者の仕事があるし......」父の体調が思わしくないとか色々な理由が重なり、迷ったあげく歯科医の仕事をやめる決心をしました。

いきなり父の仕事を手伝っても、なかなかうまくいかず辛い時期でした。この頃は本当にいろんなことがあり、毎日辛かった思いがあります。「本当に歯医者の仕事に戻れるんだろうか?」「いったい俺は何をやってるんだろう?」

確かに人生の中では回り道でした。でも、今にして思えば「人生、回り道も必要じゃないかな?」と思います。

この時期に歯科医の仕事を離れ、迷い、悩んだからこそ今のぼくがあるんだと思います。(結婚を考えていた彼女とはこの時期に別れました。他にもいろんなことがありましたが、機会があれば又書きたいと思います)


大事故と、父との別れ
ある日、バイクに乗っていたぼくは急に横から出てきたベンツと衝突しました。
体が投げ出されて空を飛んでいたときの風景は今でも鮮明に覚えています。

救急車で運ばれ結局、右のひざが粉々になっていたので腰の骨をひざに移植する手術を受けました。手術をしてもひざなんて曲がりません。

リハビリ生活が始まりました。半年近く松葉杖だったのであまり動けず15kgほど太りました。今でも正座や走ったりすることはできません。
将来のこと、今のこと、不安だらけでした。

松葉杖をつきながら歯科医の仕事に復職しました。しかし、しかし、まだまだ神様は容赦なくぼくにムチを与えます。

父が末期がんの宣告を受けました。3か月に渡る闘病生活が始まりました。はっきり言ってみてられません。母の献身的な介護を見てるのも辛かった。

そして父は逝きました。優しく厳しかった父。小さい頃、消防車が好きだったぼくのために消防署まで行って、交渉して消防車に乗せてくれた父。ぼくは大はしゃぎだったそうです。

父との思い出
ぼくが悪さをするとよく、けつバットをされました。(要は野球のバットで思いっきりおしりを叩かれる、これが痛いんです)

ぼくの部屋に友達が遊びに来ていると必ず、酒をもって乱入してきてなかなか出て行かなかった父。父の人柄がよく出ているエピソードがあります。

父が友達に向かって「君はどこの大学に行ってるんだい?」「はい、暁曠君と同じ昭和大学です。」「なにー、暁曠と同じ大学?お前アホやろ」豪快な父でした。

ちなみにアホ呼ばわりされた友達は現在、内科の院長をしております。いい思い出です。

あんなに子供が好きだったのに孫の顔も見せてやれなかった。今だったら二人でうまい酒でも飲みながら、いろんな話ができたのに......
今だったら親孝行してやれたのに......今だったら......
おやじ、ありがとう。

この頃のぼくは少しずつ、鬱な状態抜け出し始めていました。あまりに色々なことが集中しておこるので精神的に麻痺してたのかもしれません。

実際にこの頃の記憶は断片的にしか思い出せない部分もたくさんあります。

人は本当に辛い記憶があると、脳が自分を守るために勝手に記憶を消去する、と読んだことがありますが、ああ、本当なんだなあと思います。

梨本先生との出会い~再生

やっと神様が許してくれたのか、その後4年ほどはぼくの状況は落ち着いてきました。
歯科医師の仕事に復職してもまだぼくの周りの状況はごたごたはしてましたが、ぼくの気持ちはだいぶ余裕が出てきました。

いろいろなつらい事を経験して、腹が据わったという事もありますが「ああ、つらくても人間、必死にもがいていれば少しはいい方向にいくんだな」と頭ではなく体で理解できるようになったんだと思います。

この勤務医の時期にお世話になったのが、その医院の院長の梨本先生です。
先生は歯科医院を複数持っていらっしゃったのですが、本当にすごくハードに治療に経営にたずさわっていらっしゃいました。

「この人、いつ寝てんだろう?」「何がこの人をここまで突き動かしてるんだろう?」といろんな事を考えさせられました。

ぼくの困った状況の事もご存知だったので、いろんなお話もして頂きました。梨本先生には仕事に臨む態度、目標に向かって走りつづける事の大切さなどいろいろな事を学ばせて頂きました。

こうして勤務医をしているうちに自分の精神状態が少しずつ、少しずつ「再生」モードになっていくのが自分自身で体感できました。

本当にいろんな人たちに支えられて自分の医院を持とう、と言う気持ち、状態になれました。本当にみんな、ありがとう。

そして、なんとかパステル歯科医院を作ることができました。これだけ歯科医院が街にあふれていて最初からうまくいくはずがありません。

色々な努力をして、素晴らしいスタッフにめぐり合いみんなでがんばっています。


人の痛みが分かる
ぼくは本当に色々な経験をしました。辛い経験を通してぼくは人間として成長したと思います。

人の痛みが理解できるようになりました。どんな事があっても、逆風が吹いても絶対倒れない。倒れるときがきても絶対後ろ向きではなく、前を向いて倒れたい。

患者さんのために治療だけでなく、何かをしてあげたい。無理かもしれないけれど、患者さんの人生に関われるような歯科医師になりたい。

ぼくの医院でがんばって働いてくれるスタッフに仕事はもちろん、人生の熱さ、有意義さを教えてあげたい。

そんな熱い気持ちでぼくは今日も診療室に立ちます。


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